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伝説「阿倍貞任隠れ岩」、白銀橋

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伝説「阿倍貞任隠れ岩」▽
白銀橋▽


伝説「阿倍貞任隠れ岩」】 
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伝説「阿倍貞任隠れ岩」

 田瀬湖の南西端にある田瀬大橋の西側T字路から北に進んで約150m、道路沿い山側にあります。少し進むと駐車スペースがあります。
 前九年の戦いにより貞任は、頼義の子頼家に追われ雨露を凌に格好の岩屋があり、そこで隠遍生活をして川魚・山菜・獣肉等を食して長い間住んでおり、その間、後方の砥森連峰中の小砥森山に居城を構えることを計画したが、頼家に発見され北方へ逃げ去ったとされ、以来、阿倍貞任隠れ岩として、言い伝えられている場所です。
伝説「阿倍貞任隠れ岩」

阿倍貞任(あべのさだとう)前九年の役

 阿倍貞任(1019〜1062)は、古代末期の東北を代表する武将の一人である。
 前九年の役の抵抗を指導し現地の人達からは「高天の如く」仰がれた。
 古代末期の東北辺境に独立をかつとっていこうとする戦いは阿倍氏のもと彼においてひとつの頂点を迎え、清原氏、藤原氏に継承され結実するのである。

伝説「阿倍貞任隠れ岩」

前九年の役(1051〜1062)

奥州藤原氏の時代  奥六郡(胆沢、江刺、和賀、稗貫、志和、岩手郡)の豪族阿倍氏は、この地に産する馬と砂金をうしろだてに、胆沢郡衣川に本拠をかまえ、十余の城柵に一族を配してその勢力は強大であった。
 これを国司として牽制することを源頼義が任命された。
 阿倍氏は反抗する意志はなく衝突をさけようと努めた。ところが頼義の任期が切れる寸前で紛争がおきた。
古代蝦夷の英雄時代  原因は阿倍貞任が、頼義の武将の妹に結婚を申し込んだところ、貞任が蝦夷の子孫だという理由でことわられたことにあった。
 戦いは、長い年月にわたり一進一退を続けた。しかし、1062年頼義が出羽の豪族清原氏の応援を得たことにより一挙に終局をむかえることとなり、貞任は13才の我が子千代童子とともに戦死した。




白銀橋】 
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白銀橋

 田瀬大橋より西に約1km、田瀬湖に架かる吊り橋。住民の陳情により架設し、昭和55年から使われてきたこの橋も老朽化し、一時使用禁止となりましたが、現在は改修され歩行者のみ通行ができます。こちら側には駐車スペースもあります。

 ここから更に西に進むと、1.5kmほどで「東和町B&G海洋センター」があり、その脇を通って「田瀬ダム」まで行くことはできますが、自動車はすれ違えません。挑戦する場合、出来る限り4WD車で行くことをお勧めします。

白銀橋





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