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萬鉄五郎記念美術館

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萬鉄五郎記念美術館、土沢城址 を表示
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萬鉄五郎記念美術館▽
八丁土蔵▽
「冬の桜」詩碑▽


萬鉄五郎記念美術館】 
地図/YahooMaps

 町の北側にある山が舘山(館山)であり、昔の「土沢城」跡地です。その中腹には現在、土沢中学校や幼稚園と共に「萬鉄五郎記念美術館」が建っています。周辺を桜並木に囲まれ、隣には萬鉄五郎生家の土蔵「八丁蔵」が復元されています。

 近代日本美術のさきがけ、東和町出身の萬鉄五郎の作品や生い立ちを紹介している美術館です。この美術館のある舘山(館山)から見える風景を鉄五郎はこよなく愛しました。春には周辺の桜が咲き誇り、その桜越しに町を一望できます。


萬鉄五郎記念美術館

萬鉄五郎

萬鉄五郎(引用)  萬鉄五郎は明治18年(1885年)11月17日土沢の記念美術館に近い「八丁(屋号)」に生まれました。
 明治40年(1907年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学し、画家になる決心をします。
 明治45年(1912年)、岸田劉生や高村光太郎らの結成した「フューザン会」に参加し、強烈な色彩と大胆な筆触による近代的な画風を展開させました。
 大正3年(1914年)、29歳の萬は絵画制作に専念するため、故郷の土沢に戻り、新しい方向へ進みました。色彩はモノクロームへ変化し、キュビスムによる形態のデフォルメが明らかになってゆきます。
 大正6年(1917年)、再び上京し、あふれんばかりの作品制作を行います。
 大正8年(1919年)、神経症の療養のため神奈川県茅ヶ崎に移り住みます。画風も変化し始め、関心も日本の伝統絵画にむかいました。
 昭和2年(1927年)、短い生涯を閉じる。

 萬は、その頃日本に紹介されつつあった、ポスト印象派やフォーヴィスムの絵画にいち早く共鳴し、新しい絵画の傾向を実験しました。しかし、彼はそれだけで満足せず、それを吸収し、彼の内面を具現化した自身の絵画を確立しました。

※写真引用/萬鉄五郎記念美術館パンフレットより

萬鉄五郎記念美術館からの風景



八丁土蔵】 
地図/YahooMaps

八丁土蔵

 内部は1階に喫茶室・ミュージアムショップ、2階にはハイビジョンシアターを常設しています。正面に10台分くらいの駐車場あり。 「土沢城址」を散策したい方はここに停めていっても問題ないでしょう。

「八丁土蔵」について

 この土蔵は、萬鉄五郎の生家・八丁(屋号)=萬家本家所有=の倉庫であった。鉄五郎が幼少のころ好んで遊びたわむれた場所といわれ、昭和61年3月、都市計画に伴う移転を契機として東和町に寄付された。耐久性を考慮のうえ解体前の木材を最大限活用し、昔ながらの工法を守って復元している。
 語らいの場、交流の場としての利用を図るため、内部には憩いとやすらぎのコーナーを設け、隣接の萬鉄五郎がこよなく愛した昔の土沢を偲ぶ場として親しんでいただきたい。



「冬の桜」詩碑】 
地図/YahooMaps

「冬の桜」詩碑

 「八丁土蔵」の前、下に土沢町を見下ろせる崖縁にある沢野起美子作「冬の桜」の詩碑です。

「冬の桜」詩碑 沢野起美子

白い月が 避雷針に 引っ懸かりそうに 浮かんでる
白堊のビルの 冬の桜は 春の花よりも 生命的だった
私はこのごろ 黒い 冬の桜の枝々に かたい蕾を 見て通る



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